〈お客が増えるプロダクション代表/村上 透プロフィール〉

murakmi
【飲める高校生でした……ありゃりゃ編】
明治時代、祖先が富山県から北海道へ移住。帯広市あたりを開拓し、イモ畑を広げる。それから約100年後、僕も帯広で誕生。

3歳をすぎても「ブーブー」しか喋ることができず、病院を転々とするも原因不明。「上を向いて歩こう」が大ヒットした1961年(昭和36年)生まれにもかかわらず、幼稚園を3ヵ月で中退、下向きの人生を送る。

廊下を直角に曲がるほど小さいころから超まじめ。先生にかわいがられる反面、ねたむ同級生にいじめられる。笛、ハーモニカ、カスタネットなどを次々盗まれ、親に言えず、死にたかった小学生時代。「人生は孤独だ…」と飲み始め、酒量のピークは高校3年。小中高と旭川市に住み、北海道の屋根、大雪山に通う。一度だけ、熊に襲われそうになる。大学の学部名を聞かれると「山岳部と合唱部です」と答え、まったくウケない。

死ぬまでにやりたいことがあり、その実現のため、さかのぼって考えると、まず住宅営業が最適と判断。積水ハウスに入社後、変わった上司と出会ったため全国最下位と最優秀新人賞の両方を経験。

経営雑誌の出版社に転職、14年にわたり800人以上の社長を取材。自ら書いたインタビュー記事は300本以上。伸びる会社とつぶれる会社の違いに気づく。好不況にかかわらず継続的に業績を向上させる経営のやり方がわかる。

当時、マスコミ取材を断っていた竹田陽一氏に、ある約束をして取材に成功。以来、竹田先生と取材先の社長が僕の師匠。

一時的な売上増大策ではなく、お客を増やし続ける戦略と戦術のパターンを確信。あなたに知らせるために独立。日本で唯一のお客が増える詳細事例レポート『お客が増える!』の取材、執筆、レポート販売が仕事。

結局、今年は、経営者の取材人生19年目。いま思えば、独立のときからわかっていたことだが、ランチェスター経営の竹田陽一先生にあいさつにうかがった際、「事例レポートの取材、執筆は村上さんの天職だ!」といっていただいたと記憶。実際の会話は次のとおり。

「事例レポートを書きます」
「ああ、それがいい。あんたはそれしかできんのやから」
「僕には戦略があります」
「うんうん、ふつうの人は3年かかるけど、村上さんだったら……」
(以下、ここでは書けません。会ったとき、僕に尋ねてください)

これしかできん僕の本当の売り物は……(ここから先は僕のセミナーで)。
すぐ「お客さん、増えてますか?」などと戦略や戦術の話をふっかけるので女性経営者に不人気。ごく少数の男性経営者から可愛がられることに納得がいかない小心者。

怖いのは「不勉強による無知」「慢心」「低温やけど」。

雪かき(除雪)がめんどうになり、現在住んでいる札幌から暖かい土地への移住を夢見るおじさんでもある。

「非売三原則」が想像以上に支持され、ノーベル平和賞(もしくはノーベル経済学賞)受賞の期待が高まっている。メールレター(メルマガ)「今日も元気にお客が増える!」の読者数が日本一になる日は、今のところ遠い。

これまでの人生で繰り返してきたこと……カヤック、焚火、雪かき、山菜採り、寝不足、妄想、失恋、取材、二日酔い、記憶喪失、食べ過ぎ、しゃべりすぎ、怒り、嫉妬、家庭菜園、一夜漬け、三線(さんしん)。

自称「大器晩成型。将来有望」「村上龍、村上春樹に続く第三の村上」「ドラッカー先生は顧客の創造、竹田陽一先生はお客づくり、村上透はお客が増える」。

メールレター(メルマガ)「今日も元気にお客が増える!」の読者数が日本一になる日は、今のところ遠い。が、本音だけを楽しんで書いているので、これまた人気がある、らしい。


【村上透ものがたり……あはは編】
小学生あたりまでの村上透です。
ちなみに、どうしてこんな自己紹介をするのか。自分の過去を公表するのか。
あなたにも「○○ ○○ものがたり」を書いてほしいからです。
なぜ?

お客が増えるからです。

こんな自己紹介でもお客が増えるのです。
僕の自己紹介を見ていただければ、

(なぁ〜んだ。この程度でいいのか…)

と自信をもっていただけると思います。


では、「村上 透ものがたり」のはじまり、はじまり。


♪富山から移住、帯広市生まれです。

昭和36年(1961年)、僕は北海道の帯広市(おびひろし)で生まれました。
帯広って聞いて、北海道のどのあたりかわかりますか。
 
男3人兄弟の真ん中です。4歳。柏林台団地にて。
男3人兄弟の真ん中です。4歳。柏林台団地にて。

ま、わからなくてもいいんですけどね。
帯広市の人口は現在、約16万8000人。
小麦やイモ、豆、てん菜(ビートとも言う=砂糖の原料)、
長いもなど 十勝平野の真ん中に広がる穀倉地帯です。


北海道は本州から渡ってきた屯田兵が住み着いたことで
知られていますが
(ちなみに、北海道では本州のことを内地=ないち、と言います)
帯広は「晩成社(ばんせいしゃ)」という開拓民の一行が入植し、
未開地を開墾、開かれた街です。

アイヌ人は住んでいたでしょうけどね。


その後、僕の先祖は富山県から移住してきました。
遠い遠い親戚ですが、いまも富山県には村上という家があります。

弟は外人ではありません
弟は外人ではありません。
父親やおじいちゃんから、「砺波(となみ)」「高岡」という
地名を聞いたことがあります。

「越中富山弁」も聞いたことがあります。

父親は地方公務員。十勝支庁(とかちしちょう)に勤めていました。
都庁や県庁と同様、北海道には道庁がありますが、
面積が広いためにいくつか支店を設けるように支庁があるんです。

余談ばかりですが、いくつの支庁があるかご存じですか。
知らなくてもいいですね(笑)
14です。

石狩、空知、後志、胆振、日高、渡島、檜山、
上川、留萌、宗谷、網走、十勝、釧路、根室。

「空知」は読めますか。(そらち)です。
「後志」は? これはむずかしい。(しりべし)です。
「胆振」もむずかしいでしょ。(いぶり)です。

北海道では天気予報もこの区分で発表されます。

兄はいつも、まぶしがっていました。僕は少しずるい顔をしています。
兄はいつも、まぶしがっていました。僕は少しずるい顔をしています。
十勝という呼び方は、アイヌ語で「トカプチ」と呼ぶから。
北海道の地名は、とにかくアイヌ語読みがほとんど。
トカプチとは十勝川のことです。

3歳ころのことまでは、おぼえていません。
記憶力にかなりの問題がありそうです。

あとから聞いた話ですが、3歳をすぎたころ、
僕のことで何件も病院をまわったそうです。
たいへんな問題が起きたのです。


♪「ブーブー」しか言えない3歳児

僕が3歳になったころ、両親は疑問と不安を抱きました。
「この子はなぜ話さないのだろう」と。

3歳になっても話す言葉と言えば「ブーブー」。
水が飲みたければブーブー、車を見ればブーブー。
絵本などでイラストを指差してはブーブー。

3歳ですよ。遅すぎますよね。
僕としては信じられません。いまおしゃべりですから(笑)

でも親から何度も聞いたことです。
叔父や叔母からも聞きました。間違いないのです。
僕はなんて顔が大きいのだろう…。今もそうですが。右は弟。外人じゃありません
僕はなんて顔が大きいのだろう…。今もそうですが。
右は弟。外人じゃありません。
そこである日、僕が生まれた産婦人科へ行ったそうです。
しかし、たくさんのこどもを診てきた先生いわく問題なし。

「歩き方を見れば、いろんなことが遅いかどうかがわかる」と
聞いた両親は、こんどは整形外科へ。問題なし。

脳の専門の病院を勧められましたが、昭和39年、当時の帯広には
いまで言う脳神経専門の病院はありませんでした。

そこで、脳の研究をしているという先生がいる小児内科へ。
しかし、「正常です」とのこと。

そうなったら帯広でははっきりしません。
札幌にある医大での検査です。
2日間かけてあらゆる検査をしたそうです。

問題なし。

脳などからだには原因を見いだせない医者ばかりでしたが、
「原因として考えられるのは…」という見解に共通項がありました。


♪次男の宿命(おおげさ)

3歳になっても「ブーブー」しか言えない。
その原因として考えられることはなにか。

親が僕にあまり話しかけていないからではないか。

それが僕を診察し、検査した医師に共通する見解でした。

僕には兄がいます。
からだが弱く、入退院を繰り返した兄です。
心配ですから親は兄のめんどうをよくみます。
兄はからだが弱く、札幌医大付属病院に入院していました “ぼっこ手袋”を“はいて”います
兄はからだが弱く、札幌医大付属病院に入院していました。帯広からお見舞いに行ったときの写真です。(写真左)
“ぼっこ手袋”を““ぼっこ手袋”を“はいて”います。北海道では手袋を身につけることを「はく」と言います。


弟もいます。
兄への対応に時間と労力を費やすあまり、
三男にさびしい思いをさせてはいけないと親は思う。
だから三男には話しかけます。

その狭間でつい、可愛がり方がおろそかになるのが
次男の僕というわけです(笑)

そんな無口で内向的な僕は3歳、4歳、5歳と
帯広ですごします。

一軒おいて隣の家に出入りし、
そこのおじさんおばさんに可愛がられました。

なにしろ小さな子どもですから、
その家が、ある俳優の実家とは知らずに遊んでいたのです。
「太陽に吠えろ!」に出演していた俳優です。


♪池田のバナナまんじゅう

池田には親せきや知り合いがいました。池田名物「バナナまんじゅう」が楽しみ
池田には親せきや知り合いがいました。池田名物
「バナナまんじゅう」が楽しみ。ドリカムの
吉田美和ちゃんの家があります。
帯広に住んでいたときは近郊の町や村によく出かけました。
池田町にもよく行きました。親戚や親の知人友人がいましたから。

そんな親の用事は、子どもにとって退屈なものにすぎませんが
僕にはほかに楽しみがありました。
「バナナまんじゅう」を買ってもらえることでした。

バナナまんじゅうは、バナナの形をしてバナナの香りと味がします。
まさにバナナですが、一切バナナは含まれていません(笑)

池田駅で降りるときはなんら問題ありませんが、
ときに池田を越えて、その先の浦幌や釧路に向かうときは
少々あせりました。

池田駅に停車しているあいだに汽車の窓を開けて(上に持ち上げる窓)
ホームのバナナ饅頭立ち売りおじさんを呼ばなければならないからです。


100年以上の歴史をもつ池田町のバナナ饅頭はいまも作られています。
その後、池田では十勝ワインが販売され、
ドリカムの吉田さんの出身地として有名な町になりましたが、
僕にとって池田の原点はバナナまんじゅうなのです。


♪自称、幼稚園中退

春、帯広の葵(あおい)幼稚園に入った僕は
夏までしか通うことができませんでした。

親の転勤により旭川市へ引っ越すことになったからです。

小学生の兄は旭川の神楽岡(かぐらおか)小学校へ転校し、
弟は神楽(かぐら)幼稚園に転園です。

(転園という言葉は正しくないかもしれません)

僕は……、旭川の幼稚園には入りませんでした。
今思えば生意気なことに拒否したのです。

「幼稚園には行かない。うちで本を読む」

それが理由です。

引っ越し先の新しい幼稚園だと友だちができないから、
集団のなかですごすのがいやだから、
といった理由ではなく本を読みたいから。

エラそーなことを言ったものです。

近所には同じ歳の人が大勢います。
弟の友だちもいます。

しかし幼稚園に通わない僕には遊ぶ友だちがいません。

夏から翌年の小学校入学まで、
毎日あきることなく本を読んでいました。


日に焼けているわけじゃありません
日に焼けているわけじゃありません。
写真が暗いだけです。
♪同じ本を繰り返し読んだ6歳の8ヵ月

夏から翌年春まで幼稚園に行かず、
毎日家のなかで本を読んでいた僕です。

いったい何を読んでいたのか。

「世界児童文学全集 全55巻」といった
全集ものがありました。正しい名称は忘れました。

3歳上の兄にふさわしいと思い、
両親が買いそろえたのでしょう。

子ども向けの本もありました。
覚えてはいませんが、
『みつばちマーヤの冒険』といった本です。

たくさんあるように感じましたが、
大きな本棚ひとつぶんです。

やはり顔が大きい。ランドセルと同じくらい
やはり顔が大きい。ランドセルと同じくらい…。
読む速度は遅いのですが、
同じ本を何度も読んでいました。

幼稚園から弟が帰り、
近くの小学校から低学年が帰ってくると
外は子どもたち特有のにぎわいをみせます。

少しは気になりました。
いや、もしかしたらかなり気になっていたかもしれません。

でも、そうやって冬が過ぎ、
小学校入学の時期になりました。


【村上透ものがたり……いひひ編】

中学生あたりまでの村上透です。

では、「村上 透ものがたり……いひひ編」のはじまり、はじまり。


♪中学に入ると学年10番台。

ある日、担任の先生が「家庭訪問」でウチに来ました。
何を言い出すかと思ったら、母親にこんなことを。

「村上君の成績が落ちたのは、だれか
 女の子とつきあっているからじゃないでしょうか」
と、根も葉もない話を母親に。

小学校では一番だった成績が、
中学校では学年10番台に下がってしまいました。
しかも、勉強量がたりないと、
20番くらいにまで下がります。

成績が下がるのは勉強量が少ないから。
女の子の影響ではありません。

勉強をしなきゃ…
テスト対策をやらなければ…と思うのですが、
ついつい、本を手にしてしまうのです。


♪小説家になる!

本のジャンルなど問いません。
日本の文学、大衆小説、伝記もの。
海外の文学、スパイ小説、冒険もの。

できるかぎり図書館で借り、
お年玉で文庫本を買いました。

買いたい本があると言えば、
親はお金をくれました。

中学2年のときです。
『小説 アルトハイデルベルク』を読み、
(小説家になろう)と決めました。

五木寛之や野坂昭如(のさかあきゆき)の本を読み、
(早稲田大学へ行こう)と決めました。

親にも、友達にも、先生にも言いません。
内心、決めていただけです。

僕の頭には、親には言えない姿を
描いていたからです。


♪中退がかっこいい。

物書きになる。
好きな作家はワセダが多い。
だからワセダへ行きたい。

しかし、あまり大学へは行かない。

進級できず、授業料も滞納し、
中退した作家が多いから。

妄想が始まります。


できれば夜学。
親からの仕送りが途絶え、
アルバイトをするが、
なけなしのお金も酒代に消え、
やがて中退。

そうなりたい。
いや、それだけじゃ
いい小説は書けない。
苦労がたりなさすぎる。


大学を8年で卒業できず、
あるいは中退した僕は、
田舎者ゆえの劣等感と見栄に苦しみ、
貧しさを憎む。

書いても売れず、酒を飲んでばかり。
書きたいものを書いても金にならず。
食うためには意に添わないものを書き、
自己嫌悪に陥る日々が続くだろう。

無頼(ぶらい)で孤独で硬派で泣き虫。
そんな物書きになりたい。


親には言いませんでした。
「大学を中退するつもり」なんて言えない。

大学へ行くけど、中退する。
それでもお金を出してほしいなど、
言おうものなら、

「なに、はんかくさいこと言ってるの!」

と言われるに決まっています。

※はんかくさい=ばかみたい、おろかな


そうでなくても、僕は幼稚園中退者。
中退の実績があります(笑)

決して悟られないよう、
ひそかに中退を決意したのです。


♪ピアノは挫折。

そんな決意とは無関係ですが、
それまでならっていたピアノをやめました。

貧しい家なのに、
音楽と本に関してはお金を惜しまず、
どういうわけかお酒にも寛容だった僕の両親。

まったくものにならないにもかかわらず、
ピアノの月謝を払ってくれたのです。

ピアノを始めたのは兄の影響。
華麗な鍵盤タッチの兄を見て、
ボクもピアノを弾きたい…と。

のちに大学のピアノ科へ進んだ兄と違い、
僕は習い事の落ちこぼれ。


ピアノは挫折。習い事はなし。
その代わり勉強をするかと思えば、
中学の合唱部に入りました。

僕が合唱部、弟は弦楽合奏部でした。


思えば、中学1年のとき、
校内合唱コンクールで優勝しました。

1年C組。曲は、「大きな古時計」。
僕が指揮者、歌の指導もしました。

みんなで決めた練習時間に遅れる人、
私語が多い人、ふざける人を
僕は怒りまくっていました。

えらそうに…。

でも、優勝。
合唱が僕に影響を与えたひとつであることは
間違いありません。


♪兄の教育。

音楽は好きです。

完全に兄の影響です。

兄は、ピアノの練習以外、
ギターを弾いていました。

ピアノとギターを弾く時間以外は、
ラジオやレコードを聴いていました。

片っ端からカセットテープに録音し、
半強制的に僕と弟にも聞かせました。

ジャンルは問いません。

フォークソング。
ジャズ。
ソウル。
歌謡曲。
クラシック。
ロック。
ニューミュージック。


兄の解説が、じつにこまかい。

このメロディがいい。
この歌詞が泣ける。
このリードギターの技巧がすごい。
このベースラインのセンスがいい。
このアレンジは優れている。
このバスドラは(ドラムの足の動き)人間離れしている。

カセットテープを巻き戻しては、
何度も何度も、同じ部分を聞かされました。


♪初めて買ったのはジャズのレコード。

兄に音楽を教えられることが苦痛なら、
きっとケンカしていたでしょう。

苦痛じゃないのです。
おもしろいのです。

友だちが、お年玉で買うのはビートルズ。
僕が初めて買ったレコードは、ジャズです。

『Modern Jazz Quartet(=MJQ)』
モダン・ジャズ・カルテットでした。

一応、勉強はしましたが、夜、
弟と2人で一室の部屋にいると、
兄が入ってきます。

「とおるちゃん、みっちゃん、
 これ聞いてみな。すごいから」

僕は僕で、ラジオを聞いたり、
ラジオでかかる曲をカセットテープに録音し、
繰り返し聞いていました。

弟には弟の世界があります。

夜遅くまで起きているわりに、
さほど勉強をしない男3人兄弟でした。


【村上透ものがたり……うふふ編】
大学入学までの村上透です。

では、「村上 透ものがたり……うふふ編」のはじまり、はじまり。



♪数学理科不要論。


いつか作家になろう。
そう決意して気が楽になったことがあります。

(もう数学や理科を勉強しなくていい)

ものを書くのに数学は不要。
国語は大事だけど、理科は関係ないな…。

もちろん間違った考えです。
もの書きになろうと決めたからといって
数学や理科を勉強しなくてもいいことにはなりません。
自分に都合いいように決めただけ。

中学はもとより高校時代もひどかった。

数学の試験は100点満点のうち4点。
追試を受けさせられてようやく28点とか…。

「なぜおまえはこんな点数なんだ?」
と数学の先生に聞かれました。
数学不要論を述べましたが、
当然、聞き入れてもらえませんでした(笑)



♪将来に備えて酒を飲む練習

志望するコースが決まったからといって、
入学が決まったわけではありません。

しかし僕の未来は明るい。

将来の仕事に必要なものは、
まあ、日本語を知っていることくらいだな…。

気が大きくなった僕は
合唱と山登りに時間を費やします。

平日は音楽室で音楽部の活動。
土日は大雪山で山岳部の活動。

平日の夜は、酒の練習。

なにしろ将来は作家です。
作家というものは飲む人ばかり。
飲めなければ話になりません。

家で飲みます。
理解ある親です。

「人に迷惑をかけなければ飲んでもいい」
と母親。

「楽しいお酒なら大いにけっこう」
と父親。

忠別川(ちゅうべつがわ)をはさんで対岸には
藤圭子の実家があります。

藤圭子は、「15、16、17」と
人生が暗かったかもしれません。

が、僕の人生は明るかった。
「16、17、18」と僕の高校時代は
歌って、登って、酔って楽しかったのです。


♪飲む条件

父の酒はゆかいでした。

めずらしく早く帰宅した際には、
晩酌のようすを見ていました。

にこにこ、おもしろいことを言い、
周囲まで楽しくさせてくれる酒でした。

小さい頃から、
「ひとくち飲みますか?」
と敬語で話しかけられていました。

「飲む!」と答えると、
ほんとうに飲ませてくれました。

僕は小学生の頃から
父親によって鍛えられたのです。


飲んで愚痴を言わない。
飲んで悪口を言わない。
飲んで怒ったり泣いたりしない。

それを約束できるなら、
飲んでもいい。

父にそう言われたのです。

寛大でした。

と言いたいのですが、もしかすると、
飲み相手がほしかったのかも(笑)

「多聞(たもん)」や「月桂冠」。
安い二級酒を飲んでいました。


僕が40歳のとき、
父はこの世を去りました。

もう一度、父の晩酌につきあいたかった。

もう一度、父と一緒に飲みに行きたかった。


もう一度……と言わなくてもいいように
それからの僕は、飲めるときには
酒を飲むことにしたのです。

(あとづけの言い訳)


♪理解ある焼き鳥屋の主人

ときには焼き鳥屋で飲みました。

授業が終わると一度、
バスに乗って帰宅。

「おかあさん、小野寺くんたちと
 焼き鳥屋に行くことになった」

「2000円でいいかい」

お金をもらい、
バスに乗ってサンロク街へ。

旭川市の夜の繁華街といえば
3条通6丁目を中心とした
通称「サンロク街」。

どう見たって僕らは高校生。
大人びた振る舞いを試みても、
バレるに決まってます。

だから、お伺いをたてます。

焼き鳥屋ののれんをくぐり、
引き戸を右に開け、

「あのぉ〜3人ですが
 いいですか?」

店主は一瞬で判断します。

「あんたら東高の生徒だろ。だめ」

そう言われたら謝ります。

何も言わず、だまっている店主がいます。
歓迎はしないが、拒否もしない。

ありがたい焼き鳥屋のおやじです。


♪本命不合格

高校3年生の冬、大学受験の1年目。
(1年目と書くということは、2年目もある…笑)

共通一次試験を受けました。
5教科7科目です。

苦手、嫌い、体質に合わない数学も受けました。
物理も化学も試験科目に含まれます。

夏の山岳部インターハイが終わって以後、
はじめて大学受験用の勉強を開始しました。

親の負担を考えて国立大学も受けます。
内心、行きたいのは私立文系です。

受験の結果はどうだったか……。

国立大学は、行けるところがありました。
札幌にある国立大学の文学部です。

私立大学も、行けるところがありました。
しかし本命の早稲田は不合格。

本命ではない国立大学に進むか、
本命の私立大学を目指すか、
18歳の僕には人生上の大問題でした。



♪一浪時代

どうしても行きたい大学へ行きたい。
親の苦労を知ったふり。
本質を知らないから浪人と決め込みました。

旭川を出て札幌のおばさん宅へ。
札幌予備学院へ通いました。

高校時代の友だちが何十人といます。
講義が終わったらパチンコ屋へ。

「どんなことがあっても500円を上限とする!」
「一回、大当たりが出たら、必ずやめる!」

かたく決意してパチンコ台に向かいます。

僕の運は、このころかなり使ってしまったかも。
500円でスタートし、
毎回、換金すると1500円や1800円。
ときには2500円を手にしたこともあります。

パチンコ屋を出ると、友だちと一緒に喫茶店へ。
倫敦館(ろんどんかん)という珈琲屋さん。

浪人生にはかなり高いけど、おいしいコーヒーです。
いつもウエイトレスを見ていました。
大人のおねえさん。

札幌の一年間で、もっとも打ち込んだのは、
パチンコ屋でほんのわずかなお金をかせぎ、
喫茶店で本を読みながらコーヒーを飲むことでした。



♪二浪時代

親不孝は絶好調でした。

札幌予備学院での一年が過ぎ、
二度目の大学受験。

親の負担を考えると、
進むべきは北海道内の国立大学。

世間を知らない生意気な子どものくせに、
ここに行きたいと願っているのは私立大学。

「なるべく負担をかけませんので」と宣言し、
東京に行かせてもらいました。
早稲田予備校に行くためです。

両親は、僕のしたいようにさせてくれました。
もう一度、両親が生きているうちに
お礼を言いたかったことです。



♪早稲田の鶴巻町に下宿

早稲田予備校に通うからには、
なにがなんでも早稲田にはいる。

そうでなければ困りますが、
かたい決心をした僕は早稲田鶴巻町に住みます。

1階におばあさんが住み、
2階の数部屋に学生や社会人が部屋を借りていました。
早稲田鶴巻町の下宿
早稲田鶴巻町の下宿。共同玄関、共同トイレ、
風呂なし。2万7000円。


ガラガラと玄関の引き戸を開け、外に出ると、
狭い幅の道路の向こう側は高校の敷地。

早稲田実業高校のグラウンドでした。

毎日、高田馬場(たかだのばば)にある
早稲田予備校に歩いて通い、
下宿に戻ると、グラウンドのまわりは大騒ぎでした。

荒木大輔ってかっこよかったんですね。
高校生なのに女性ファンがたくさんいました。

キャーキャーうるさいので散歩に出ました。
学生でもないのに早稲田のキャンパスを歩き、
買わないけど生協をぶらぶらしたものです。

早稲田通り沿いにある古本屋をめぐり、
1冊10円や20円の文庫本を買い、
100円の小説を買ったりしていました。

週に1回だけ、電車に乗って高校時代の
友だちの下宿へ行きました。

すでに大学へ通っている友だちの部屋です。
テレビドラマの「北の国から」を観るためでした。



【全国最下位の積水ハウス営業社員……とほほ編】

「村上! カバンに、パンフレットを詰められるだけ詰めるんだぞ。地下鉄の終点まで行って、歩いて訪問して帰ってこい」

積水ハウスに入社し、配属されたのは札幌営業所。直属上司であるS店長は、若くして引き渡し実績350棟を超える人であると知りました。毎月1棟の契約だと年間12棟。10年間で120棟。毎月2棟でも10年で240棟・・・。350棟以上とはすごい・・・。僕も店長のようになれるだろうか・・・。入社十数年のS店長は全国でも10本指に入るトップセールスでした。

「よく聞け、村上。おれがお前をトップセールスにしてやるからな。おれの言うとおりにやれ」

その力強い言葉に、「ありがとうございます! よろしくお願いします!」とお礼を述べた翌日、つまり出社2日目に冒頭の指示があったのです。飛び込み訪問をしてこいと。

「いいか、村上。お前は売らなくていいからな。一軒一軒歩いて、あいさつをしてこい。『こんどこの地域を担当することになりました、積水ハウスの村上と申します。あいさつだけさせてください』ってな。パンフレットがなくなるまで帰るなよ(笑)1時間おきに電話しろ。質問は?」

質問はありませんが、理解できなかったことがあります。「お前は売らなくていい」という店長の言葉です。(売らなくていいって、どういうことなんだ・・・売らなかったらトップセールスになれないのに!)そんないきどおりにも近い不満感をおぼえました。しかし、入社当時の僕にとって、直属上司は雲の上の人と同じ存在。口答えなどできません。その日から、「売らない訪問」がはじまりました。

札幌市営の地下鉄南北線に乗り、終点の真駒内駅で下車。一軒一軒、ピンポーンと鳴らし、玄関ドアをノックし、「あいさつにうかがいました」と述べます。が、ほとんどの家で門前払い。

入社した4月の月末、同期の営業が初契約をしました。東京の営業所に配属された同期です。5月になると、横浜営業所の同期も契約。6月末になると、全国で同期社員が続々契約をします。

毎月、全営業社員の成績が発表されます。1ページ目からめくって、めくって、最後の用紙の一番下に、僕の名前があります。
「村上透 札幌西店 0棟 0円」

7月、8月になると、僕の同期で契約していない人はいなくなりました。入社して何ヵ月も経つのに実績ゼロの社員は僕だけ。しかも、同期社員は何人も減りました。契約実績がないまま給料をもらうことに引け目を感じたのでしょう。辞めていきました。

もちろん、僕も感じました。心苦しいってものじゃありません。恐縮するってものじゃありません。会社にまったく貢献しない自分がお金をもらうことに罪悪感を感じました。毎日、辞めたい気持ちではちきれそうでした。
(続きは、村上からお聞きください)




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